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おとな旅 ゆとり旅 五所川原から竜飛崎へ 夏色の津軽旅情

2019年、令和の幕開けを記念し、日本最古の物語「竹取物語」のクライマックスを表現した立佞武多「かぐや」

鮮やかな光の巨像立佞武多たちねぷた
津軽富士を望む平野は一面緑の水田。
竜飛崎から望む海の青と、空の青…。
短いけれど美しい、北国・津軽の夏景色をお届けします。

五所川原立佞武多

大きな山車灯籠が街を練り歩く「ねぶた祭」。
旧暦の7月7日、つまり七夕の灯籠流しがこの祭りの起源とされ、その灯籠が変形・巨大化していったといわれます。大小の山車灯籠が練り歩くお祭りは青森県下の多くの町で執り行われ、青森の夏の風物詩となっています。

ちなみに「ねぶた」は「眠たい」の意味だとか。青森市や下北地方では「ねぶた(Nebuta)」、五所川原や弘前など津軽地方では「ねぷた(Neputa)」と発音されることが多いようです。

五所川原の山車灯籠は20メートルを超える「高さ」が特徴。「ねぷた」に漢字をあてた「立佞武多」です。
この巨大な立佞武多が巡行する祭りは、「青森ねぶた祭」「弘前ねぷたまつり」と並んで、「青森の三大ねぶた」として全国にも知られるようになりました。

2度の大火から復興した五所川原の町に根付く強い精神を、勇壮な火消しの姿で表現した「まとい」。

いにしえをみつめ直しつつ新しい時代に向かう象徴として制作された立佞武多「稽古照今けいこしょうこん・神武天皇、金のとびを得る」。

立佞武多の巡行は例年8月4~8日(2021年は中止)ですが、「立佞武多の館」では、祭り以外の時期でも、勇壮な立佞武多を見学できます。
二十メートル超の山車を格納する空間は高い吹き抜け。エレベーターで4階(一般的なマンションであれば6~7階程度の高さがあります)まで上がれば、立佞武多の上部もつぶさに見ることができます。

立佞武多の館は、JR「五所川原」駅より徒歩約5分、町の中心部にあります。
祭りの際はここから立佞武多が出陣。
その迫力ある祭りをいつか必ず見てみたい…!いまから祭りの再開が楽しみです。

商都として栄えた五所川原

ここで五所川原の街についてご紹介しておきましょう。
五所川原は津軽富士(岩木山)を望む、西津軽の中心都市。西方の日本海の海の幸、そして津軽平野で育てられたお米などの集積地として、近代以降は商業が急速に発展。津軽出身の太宰治は、彼が子どものころに見た五所川原のにぎわいを、東京でいえば「浅草」のようだと例えています。巨大な立佞武多が作られるようになったのも、そうした経済力が背景にありました。

夕刻、五所川原の街から、秀麗な津軽富士が見えました。

平成の大合併で市域が拡大。津軽半島北西部、しじみの産地として知られる「十三湖」も、五所川原の飛び地内にあります。

五所川原で栽培される「御所川原」という品種のりんご。果肉まで赤く、「赤~いりんご」の愛称で呼ばれています。

市内には、赤~いりんごの並木道も。

赤~いりんごは、昔ながらの酸っぱいりんごを思わせる味で、収穫期を迎えた秋には通信販売も行われます。
酸味を生かしたジュースやジャム、お菓子もいろいろで、お土産におすすめ。

立佞武多の館のロビーで味わった、赤~いりんごのソフトクリーム。クリームもほんのり赤~い色です。

津軽半島最北端、竜飛崎の夏

津軽半島の付け根にある五所川原から、最北端の「竜飛崎」までは七十数キロ。まっすぐ走れば1時間40分ほどのドライブです。

五所川原の市街地を抜けると、見渡す限りの田園が広がっています。
また五所川原は「やち」と呼ばれる湿地が多い地域。そうした自然の特性を生かし、農業用水を得るために整備したため池が点在しています。
竜飛崎へ向かって北上する国道339号線沿いにも、芦野湖(藤枝ため池)や大沢内ため池をはじめ、大小の湖沼が見られます。

写真は、芦野湖にかかる「芦野夢の浮橋」。歩いてみると…揺れます!

十三湖の北岸から日本海岸に出て、さらに北を目ざして走ります。七段の岩肌を伝い落ちる「七ツ滝」を過ぎ、登りに差し掛かれば、竜飛崎が近づいています。

いよいよ龍飛埼灯台に到着!

切り立った岩場、青い海、白い波、野の花と草の緑…。竜飛崎の夏景色は、どこを切り取っても美しく、見飽きることがありません。

津軽海峡を挟み、北海道までの直線距離は20キロ足らず。
天気のいい日には北海道の山並みがはっきりと見えます。

1988年、青函トンネルの開通まで、この海峡を青函連絡船が行き来し、多くの旅人を運んできました。その花形として活躍した「八甲田丸」は青森港(青森市)に保存され、海上博物館として利用されています。

「五所川原」へのアクセス

「竜飛崎」へのアクセス

旅の図書室

太宰治「津軽」─ 故郷への旅が見せてくれた、本来の太宰治 ─

津軽の現在生きている姿を、そのまま読者に伝える事が出来たならば、昭和の津軽風土記として、まずまあ、及第ではなかろうかと私は思っているのだが、ああ、それが、うまくゆくといいけれど。(「津軽」序文より)

「津軽」は、そうした思いをもってしたためられた作品。昭和19年、太宰自身が故郷・津軽を旅してしたためた紀行文で、彼の自伝的小説とも評される作品です。

太宰治の故郷は、北津軽郡金木村(現在は五所川原市金木町)。
生家の津島家は「金木の殿様」とも呼ばれた県下有数の名家で、太宰は明治42(1909)年、その五男として生まれました(本名:津島修治)。

生家の建物「斜陽館」は堂々とした明治建築で、庭を含めた敷地は約680坪。このお屋敷を中心にして、金木の町が形成されていったといわれます。
太宰は「津軽」執筆のための旅でも、この家に立ち寄りました。

玄関を入ると広い土間。かつてここで小作人が納めたお米の検査場としても使われ、奥には立派な米蔵があります。

土間に面した座敷や仏間など、階下の四つの部屋は、襖を外せば63畳の大広間として使えます。

2階につながる洋風階段。

階段をのぼったところには、瀟洒な洋室が。
太宰は、中学生のころ寄宿舎から帰ってくると、この部屋の長椅子に寝っ転がって、サイダーをラッパ飲みした、という夏休みの思い出を「津軽」の中で記しています。

館内では、直筆原稿や生前の愛用品などを展示。「津軽」の初版本も見られます。

太宰は「津軽」の旅で、半島の東岸を北上し、三厩みんまやから竜飛崎へと足をのばしました。当時、岬に向かうには船か徒歩しかありませんでしたが、いまはこの三厩駅(JR津軽線の終着駅)からバスも運行されています。

岬の南東に立つ「龍飛館」は、太宰が泊まった「奥谷旅館」を改修した建物。いまは龍飛岬観光案内所として使われています。

「斜陽館」へのアクセス

  • ◆津軽鉄道「津軽五所川原」「金木」(18分~27分)、金木駅より徒歩約7分
  • ◆JR「五所川原」より車で約20分

斜陽館(太宰ミュージアムHP内)
https://dazai.or.jp/

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