おとな旅 ゆとり旅 歴史の薫りと燦きを感じて

もみじ前線が日本列島を南下し、山や街を彩って走りすぎていく秋。
南国・鹿児島の大名庭園「仙巌園(せんがんえん)」では
例年11月は「菊まつり」が催され、色づく樹々とともに季節を彩ります。
ぜひともゆったり、旅の1日をゆったり過ごしてみてほしい名勝です。

桜島を借景とする大名庭園

仙巌園は、薩摩の歴代藩主を務めた島津家の第19代当主・光久によって築かれ、歴代当主に愛されてきました。「仙巌園」という名は、敷地内にある岩に似た中国の景勝地・龍虎山の「仙巌」にちなむそうです。

この場所は、桜島が最も美しく見える場所ともいわれます。その雄大な山の姿の手前には、青い錦江湾が広がって、まさに眺望絶佳。それを庭園の一部として取り入れた、鹿児島ならではの大名庭園です。

今回の取材日には、桜島が突如大きな噴煙を上げて、迫力満点な光景も見られました。訪れる季節、日、時刻によって、その日にしか見られない眺めを見せてくれる…。なんとも贅沢な庭園です。

広い敷地の中央付近には、堂々とした御殿が立っています。殿様の御居間には年輪の詰まった屋久杉を使うなど頑丈な造りで、桜島の大正大噴火による地震にも耐え、風格あるたたずまいを今に伝えています。

御殿内に入ったら、ぜひ「くぎ隠し」にも注目を。鹿児島名産の桜島大根やコウモリなど、遊び心のある意匠が見られます。
ちなみにコウモリは漢字で書くと「蝙蝠」、福の字に似ているので吉祥獣とされています。そんなわけで、この邸内にも〝飛来〟したのでしょう。

仙巌園の敷地面積は約5万平方メートル、つまり東京ドームや甲子園球場よりもひと回り大きいほど。豊かな自然にあふれる園地内には散策路がめぐらされていて、三つの神社も鎮座していて、園内で「三社参り」ができます。

その一つが「猫神神社」。
鳥居の近くには、愛猫家が奉納した愛あふれる絵馬がびっしり掛かっています。絵馬に描かれているのは2匹の猫。島津家17代・義弘は、朝鮮出兵の際に猫を連れて行き、猫の目の開き方で時間を計ったと伝えられています。絵馬にある2匹の猫は、その戦地から生還した「ミケ」と「ヤス」です。

近代日本の礎となった「集成館事業」

島津家第28代当主・斉彬(なりあきら)は、「幕末の四賢侯」にも名が挙がる名君として知られています。斉彬公は門閥や身分にこだわることなく、才ある人材を登用しました。維新の立役者となった西郷隆盛もそうした一人です。

また時代に先んじて富国強兵・殖産興業を提唱、実践。新しい国づくりのビジョンを指し示すとともに、新時代へ向かわんとする維新の志士たちの精神的支柱ともなりました。

仙巌園には、斉彬公が産業振興のために立ち上げた「集成館事業」のあとが見られ、敷地の一部は「明治日本の産業革命遺産」として世界文化遺産に登録されています。
島津家800年の歴史を紹介する博物館「尚古集成館」の建物は、日本最古の石造洋式機械工場。兵器製造のために造られた反射炉跡などとともに、構成遺産となっています。

斉彬による集成館事業の一つが「薩摩切子」です。
薩摩切子の特徴は“ボカシ”と呼ばれる美しいグラデーションと繊細なカット。色ガラスを重ねて作られる薩摩切子は、小ぶりの器でも重みがあり、まさに「宝石」と呼びたくなる存在感です。

深みのある「紅」は、数百回の試作を繰り返した末、日本で初めて製造に成功。「薩摩の紅ガラス」は珍重され、かの篤姫(斉彬の養女)が徳川家に輿入れする際の花嫁道具にもなりました。
しかし1877(明治10)年の西南戦争で職人たちが離散、その後100年以上にわたって薩摩切子の製造は完全に途絶えていました。

“幻”となった技をよみがえらせるプロジェクトが立ち上げられたのは、1985年。尚古集成館に収蔵されている薩摩切子を実測したり、1枚の写真をもとに復元に取り組んだり。特に往時と同じ紅の再現は困難をきわめ、納得するものができるまで数年を費やしたそうです。

再び歴史を刻み始めた薩摩切子。
現在は「2色被せ」の技術も確立、より変化に富んだ意匠・色彩の作品が生み出されています。

薩摩切子は仙巌園内のブランドショップや、仙巌園の隣にある島津薩摩切子ギャラリーショップ「磯工芸館」で展示・販売されています。

磯工芸館では作業工程の見学もできます。熱い炉のそばでの作業なので、職人さんたちは11月でも半そで姿。透明ガラスに色ガラスを溶着させて色を被せる高度な職人技を、黙々とこなしていました。

成型されたガラスは16時間かけて熱を冷まし、磨きの工程へ。木盤を高速回転させて表面を削り、模様を描き出していきます。さらに磨く作業を重ねて、ようやく美しい作品へと昇華していくのです。

仙巌園

庭園、御殿、博物館「尚古集成館」に加え、レストランや売店も充実。歴史に触れながら、自分のペースでゆったり1日楽しめる、鹿児島を代表する名勝です。

https://www.senganen.jp

磯工芸館

国の登録有形文化財に指定された洋館を活用した島津薩摩切子のギャラリーショップです。

https://www.senganen.jp/food-shopping/shimadzu-satsuma-kiriko-gallery-shop

仙巌園・磯工芸館へのアクセス

バス

「鹿児島中央」駅からカゴシマシティビュー、
まち巡りバス、民営バス(3社)

   ↓

「仙巌園前」で下車

車

「鹿児島中央」駅から約20分

「桜島フェリー桟橋」から約10分

「鹿児島空港」から約40分
(九州縦貫自動車道・姶良IC~国道10号経由)

旅の図書室

「おとな旅・ゆとり旅」で訪ねた土地にゆかりのある文学者や書籍を紹介するコーナーです。
今回は、鹿児島で多感な少女期を過ごした向田邦子と、
彼女の初めての随筆集「父の詫び状」をご紹介します。

向田邦子と鹿児島

「寺内貫太郎一家」「阿修羅のごとく」「あ・うん」。
1970年代に大人気を博したドラマのシナリオライターとして知られる向田邦子。仕事も順調だった40代、彼女は闘病でテレビの仕事を休止した時期がありました。そのころに書かれた随筆をまとめたのが、この1冊。「父の詫び状」です。

向田邦子は昭和4年、東京に生まれました。向田家は大黒柱である父の仕事の関係で転居が多く、邦子自身、小学校を4度も転校しています。そんな故郷らしい故郷を持たない彼女が〝故郷もどき〟と称したのが、この鹿児島でした。

「父の詫び状」に描かれているのは、子どものころの家族の思い出や何気ない日常のあれこれ。もちろんその中には、鹿児島で過ごしたころのエピソードも登場します。
懐かしい昭和の風景。でも懐かしいけれど、埃っぽい古めかしさはない…。今も若い世代の人にも読まれているのもうなずけます。

なお寺内貫太郎のモデルは、邦子にあてて一通の詫び状を書いた父であると邦子自身が語っています。
多少カタチがいびつであったとしても、家族は家族。向田邦子はこのあとに手掛けた作品の中でも、人間一人ひとりのこころの機微とともに、さまざまな家族のかたちを描き残しました。

鹿児島にゆかりのある28人の作家や、鹿児島を舞台にした作品を紹介する「かごしま近代文学館」。
2階には向田邦子の展示室「向田邦子の世界」が設けられ、生原稿や脚本、生前の写真とともに、彼女が身に着けていた洋服や文具、食器などが常設展示されています。

彼女は1981年、51歳のときに飛行機事故でこの世を去りました。その後、「邦子を鹿児島に嫁がせよう」とのご遺族の意向によって数多くの遺品が寄贈されました。
「向田邦子の世界」の一角に、生前の自宅リビングも再現。彼女の過ごした空間を疑似体験することができます。

彼女の誕生月である11月には、毎年企画展もスタートします。
2020年11月~2021年2月15日までは「向田作品の父と母」をテーマとする企画展が催されています。

●かごしま近代文学館

https://www.k-kb.or.jp/kinmeru/

鶴丸城(鹿児島城)跡に立つ文学館施設。隣接する「かごしまメルヘン館」では、ミニアスレチックやトリックアートで、メルヘンの世界が体験できます。

【かごしま近代文学館へのアクセス】

市電
「鹿児島中央」駅から約7分 → 「朝日通」で下車、徒歩約7分
車
「鹿児島中央」駅から約10分

城山のふもとに広がる閑静な住宅街の中に立つ「向田邦子居住跡地の碑」。

島津斉彬公を祀る「照國神社」は向田家の住んだ所からほど近く、同書の中にも照國神社の記述が見られます。
高さ約18mの大鳥居は、邦子が生まれたのと同じ、昭和4年の建立。鹿児島時代、まだ小学生だった彼女は、この大きな鳥居を幾度となく仰ぎ見たことでしょう。

つきたての柔らかい餅を香ばしく焼き、甘辛ダレをからめた「ぢゃんぼ餅」。薩摩藩時代から愛されてきた名物で、邦子の母・せいさんもお気に入りだったようです。

ちなみに「ぢゃんぼ」は漢字で書くと「両棒」。2本の串に刺すことからこの名前になったそう。
仙巌園内の両棒餅屋では、醤油味とみそ味、二つの味のぢゃんぼ餅が味わえます。

遊び心を奏でるアイデア集 暮らしっく »