
時代を超えて私たちの心を震わせる数多くの作品を残した詩聖・北原白秋。白秋が「我が詩歌の母體である」とその著書『水の構図』にも記した、生誕の地・柳川は、網の目のように掘割が張り巡らされた水の町である。
曲がりくねった小路の奥に佇む祠、生垣にひっそりと咲いた白い花、足元を走り抜ける猫……。「300年前の地図を見ながらでも歩ける」と言われるほど、古い町割りや掘割が今も残る柳川の町は、訪れた人を懐かしい“あの頃”へ誘う。


水郷と呼ばれて久しい柳川の町だが、元々は有明海の干潟から成り、真水を得ることが難しい土地柄。そこで先人たちは、この地で稲作をするために堀を掘り、河川の水を引き、地下水や雨水を貯めて生活用水や農業用水とした。さらに盛土の上に家を建て村をつくった。これが掘割の原型となっている。
現在見られる掘割の形ができたのは江戸時代の初めのこと。関ヶ原の戦いの勲功により筑後国主となった田中吉政公により整備されたものだ。吉政公は、不足する水を補い、土地の生産性を上げるために、清流・矢部川に堰を設け、約8kmも離れた城下まで水を引いた。城を幾重にも囲む水路は、ひとたび城外の水門を閉じれば、周囲が水浸しとなって敵を容易に攻め込ませない仕掛けになっている。「柳川三年肥後三月、肥前、筑前朝飯前」と謳われたほど難攻不落の城を築いた吉政公は、古くから土木・治水の神様として広く尊敬を集めてきた。掘割のほとりに、その銅像を見ることができる。
城下町・柳川の城は残念ながら、明治維新による廃藩置県の翌年、明治5(1872)年に焼失してしまったが、掘割は今なお、ほぼ原型のまま残されている。



この昔ながらの掘割をどんこ舟で巡る川下りは、柳川ならでは。船頭さんが竿一本でゆっくり進めていく舟に揺られての〜んびり。頰に心地よい風を感じ、両岸を流れる風景を愛でるひとときに心ほどかれる。
所々で、掘割にかかる橋の下をくぐり抜けながら舟は進む。よく見ると、橋の幅は水路の幅より極端に狭められており、上は広く、下に行くほど狭いV字型になっている。これは、水が隅々まで届きにくい平坦な土地で、水路全体に水を行き渡らせるための「もたせ」と言われる仕組みだ。
水路を狭めることにより、水が一気に下流に出てしまうのを抑え、周辺の小さな掘割にまで水を送り込むことができるようになっているのだ。また、狭められた水路を通るとき、わずかながらも水流が勢いを増し、酸素を取り込むことで水を浄化する作用もあるという。

そのうえ「もたせ」は町を洪水から守る働きも担っている。大雨が降って水かさが増せば、上が広いV字型の構造により増水した水を一気に下流に流し、上流の水路が溢れるのを防ぐ。加えて、海抜0〜6mに位置する柳川は、満潮時には海に水を排出することができない。そこで「もたせ」により、増水した水を多くの水路に分散して町全体を以って干潮時まで持ちこたえ、下流部が溢れるのを防ぐのだという。さらに、その分散した水は土地の水分を補い、地盤沈下を防ぐ重要な役割をも果たしている。このように、先人が生み出した掘割の機能「もたせ」は、驚くばかりの精密さで町全体をコントロールしながら、人々の暮らしを守っているのだ。



とろりと蒼い水が竿先から滴る。水面に落ちる木々の木漏れ日がきらきらと輝く。掘割はその機能のみならず、町の人々の心にも潤いと安らぎを与えてくれる。
舟が「柳川藩主立花邸 御花」に差しかかった。殿の蔵のなまこ壁が美しい水面に影を落とす、その場所に赤御影石に掘られた白秋の歌碑が建っている。19年ぶりに柳川への帰郷を果たした折に詠んだ歌には万感の想いが込められている。

明治3(1870)年から続く鶴味噌醸造の赤煉瓦造りの並蔵を詠んだ歌もまた、白秋の故郷への思いにあふれ、郷愁を誘う。

西鉄柳川駅前の広場には北原白秋・山田耕筰コンビによる童謡「からたちの花」の歌詞を刻んだ銘鈑が設置されている。



裏面には、まちあるきマップと文学碑案内が記されているので、柳川散策の参考にしたい。柳川には北原白秋をはじめ、檀一雄ら、ゆかりの文人たちの文学碑が32カ所に点在しているので、それらをめぐるのもまた一興だ。
文学碑案内






