『おくのほそ道』は俳聖・松尾芭蕉が心血を注いで書き上げた紀行文です。文章と句で綴られ、緻密な構成が図られています。フィクションもあります。その意味からもこの紀行文は、芭蕉が創り上げた文学作品といえるものなのです。
数え46歳の芭蕉が、弟子の曾良を伴い、江戸・深川を旅立ったのは、元禄2年3月27日(太陽暦1689年5月16日)のことでした。元禄2年は、敬愛してやまない平安末期の歌人・西行法師の500回忌にあたる年でもありました。
芭蕉は、思い焦がれていた白河の関を越えてみちのくに入り、天下の名勝・松島にひたり、奥州藤原氏の栄華と源義経の悲劇を刻む平泉(岩手県)まで北上します。
そして方向を転じ、奥羽山脈を横切って出羽路へ。立石寺(『おくのほそ道』では立石寺)、羽黒山・月山・湯殿山の出羽三山を拝し、最上川を下り、酒田から絶景の地・象潟に足を運びました。
ここから北陸路を南下。越後、越中、越前とたどり、美濃の大垣に至ります。そして9月6日(太陽暦10月18日)、伊勢神宮の遷宮式を拝するため、《蛤のふたみにわかれ行秋ぞ》と詠じて大垣を離れます。ここまでが紀行文『おくのほそ道』の旅です。およそ150日、距離にして600里(約2400km)に及んだ長い旅でした。
推敲に推敲が重ねられて『おくのほそ道』が清書されたのは、元禄7(1694)年だとされます。そしてこの年の10月12日(太陽暦11月28日)、旅先の大坂で芭蕉は亡くなります。病中で詠んだとされるのが有名な《旅に病で夢は枯野をかけ廻る》の句です。享年、数え51。遺言により、近江の膳所の義仲寺に葬られました。
紀行文『おくのほそ道』には芭蕉自身の句は50句収められています。《行春や——》を矢立の初として、最後を《——行秋ぞ》と対応させて結んでいます。練りに練られた文章も見事ですが、ここでは芭蕉の詠じた50句を味わいながら、『おくのほそ道』の旅をたどってみることにしましょう。