渋沢栄一をめぐる3つのスケッチ

写真提供/富岡市 
富岡製糸場(東置繭所)
  • とみおか
    せいじょう
  • はなわ 
    いち
  • 青い目の
    人形
 
渋沢栄一
写真提供/国立国会図書館

江戸時代末の1840(天保11)年に生まれ、1931(昭和6)年に91歳で世を去った、渋沢栄一。風雲の幕末維新を駆け、その後は第一国立銀行を皮切りに、多くの企業の設立・経営にかかわった。その数およそ500。日本の資本主義の父とも呼ばれるゆえんであるが、一方でおよそ600もの公共・慈善事業に携わり、また国際親善にも力を尽くした人物であることを忘れてはならない。
栄一は、利益のみを追求する経済を否定し、道徳との両立を目指すことが肝要だと説いた。いわゆる道徳経済合一説であり、それを栄一はわかりやすく「論語と算盤そろばん」と称した。

生活をしのばせる遺構としては、郷里に旧渋沢邸などがあり、晩年を過ごした東京の飛鳥あすか山(北区)の旧邸跡には、大正期の建造物である洋風茶室「晩香廬ばんこうろ」と書庫で接客の場でもあった「青淵せいえん文庫」(いずれも国の重要文化財)が現存し、また渋沢栄一の活動を広く紹介する博物館「渋沢史料館」が建っている。
栄一がかかわった膨大な事業のうち、見学を楽しめるスポットとしては、世界遺産「富岡製糸場」(群馬県富岡市)が挙げられる。その魅力をあらためて紹介するとともに、栄一の公共・慈善事業にかかわる事柄から、「塙保己一」と「青い目の人形」を取り上げてみることにしよう。

1.

富岡製糸場と渋沢栄一

1872(明治5)年に操業を開始した官営模範器械製糸場、富岡製糸場。フランス人の生糸技術者、ポール・ブリュナを招聘しょうへいして造られたこの工場は、長さ約140mの繰糸所そうししょに300釜の繰糸器が並ぶという、当時は世界最大規模を誇ったもので、日本の威信と産業界の期待を担うシンボル的存在だった。
このとき製糸場事務主任となって設立に力を尽くしたのが、30歳の栄一であった。また、栄一の従兄で学問の師でもある尾高惇忠おだかじゅんちゅうが初代場長に着任している。
富岡製糸場はやがて民間に払い下げとなり、変遷を経て、現在の片倉工業株式会社に合併。しかし日本の製糸業が衰退し、1987(昭和62)年に操業を停止した。
2005(平成17)年にすべての建造物が富岡市に寄贈され、翌年には主要な建造物が国の重要文化財となる。そして2014(平成26)年には「富岡製糸場と絹産業遺産群」として世界遺産に登録され、さらに繰糸所、西置繭所にしおきまゆしょ、東置繭所の3棟が国宝の指定を受けた。
明治の殖産興業のエネルギーを肌身で感じることができる、世界遺産・富岡製糸場。それはまた、若き栄一が足跡を刻んだ遺産でもあるのだ。

富岡製糸場表門
首長館
女工館
写真提供/富岡市
富岡製糸場 http://www.tomioka-silk.jp/
2.

塙保己一と渋沢栄一

渋沢栄一は埼玉県の三偉人の一人とされるが、江戸時代の1746(延享えんきょう3)年に現在の埼玉県本庄ほんじょう市に生まれた盲目の国学者・塙保己一もその一人である。
保己一が失明したのは7歳のとき。しかし驚異的な記憶力と努力で、40余年の歳月をかけて、666冊に及ぶ『群書類従ぐんしょるいじゅう』を完成させた。三重苦を克服した、かの“奇跡の人”ヘレン・ケラーが保己一を尊敬していたことは有名だ。
保己一が亡くなったのは1821(文政4)年。したがって1840(天保11)年生まれの栄一と相まみえたわけではないが、保己一の業績に感銘を受けていた栄一は、保己一を顕彰し、『群書類従』の版木を管理・保存する温故学会の設立(1909/明治42年)に力を尽くしている。温故とはもちろん、保己一も栄一も深く学んだ『論語』の“温故知新(ふるきをたずねてあたらしきをしる)”に由来している。
現在、保己一の郷里である本庄市には塙保己一記念館があり、『群書類従』のほか、貴重な資料を見ることができる。

総検校 塙保己一肖像
『群書類従』の展示
写真協力/塙保己一記念館
塙保己一記念館(本庄市)https://www.city.honjo.lg.jp/
3.

青い目の人形(親善人形)と渋沢栄一

青い目の人形早くから海外親善の重要性に気づき、行動していた栄一は、76歳の年の1916(大正5)年に日米関係委員会の常務委員の任についている。
1915(大正4)年、栄一は、アメリカの「排日移民法」(通称)制定に向けた動きを憂慮した宣教師のシドニー・ギューリックから、人形の贈答を通じて日米親善を図ってはどうかと提案され、日本側の代表となって受け入れのために奔走した。

排日移民法は1924(大正13)年に成立してしまうのだが、親善人形の事業は進められ、1927(昭和2)年、海を越えてたくさんの人形が日本に届けられた。これがいわゆる「青い目の人形」である。その数は約1万2000体にも上ったとされ、また日本からは答礼人形として約60体の市松人形がアメリカに贈られた。「青い目の人形」を手にした栄一は、日本の子どもたちに、平和と友好の尊さを語っている。こうした栄一の平和への努力、貢献は、もっと広く知られていいだろう。
なお「青い目の人形」の呼び名は、すでに広く世に親しまれていた、野口雨情作詞・本居長世作曲の童謡にったのだとされる。

参考文献/
『渋沢栄一を知る事典』渋沢栄一記念財団編(東京堂出版)ほか
伝統的工芸品をよく知る・もっと楽しむ