流路延長23.5kmの一級河川・隅田川。架けられている橋は、人が渡れるものとしては現在26橋、最下流の隅田川派川(分流)の相生橋を含めると27橋。それぞれ構造もスタイルも色もさまざまで、ライトアップされた姿もまた魅力的です。
散策日和の一日――。徒歩でたどるもよし、水上バスから眺めるもよしの隅田川橋巡りをお楽しみください。
隅田川に最初に架けられたのは、上流部の千住大橋(1594/文禄3年)。その後しばらく橋は架けられず、移動や運搬は渡し船に頼っていましたが、1657(明暦3)年、明暦の大火(いわゆる振袖火事)が発生、江戸市中の大半が焼失し、10万人もの死者が出ました。下流部に橋がなかったことが被害を大きくしたことを教訓とした幕府は、まずは両国橋(1661/寛文元年、1658/万治元年とも)、次いで新大橋(1693/元禄6年)、永代橋(1698/元禄11年)と架橋します。さらに1774(安永3)年には、住民が主体となって吾妻橋が架けられました。以上が江戸時代にあった5橋です。
明治に入ると、旧来の橋は洋式木橋に、さらに鉄橋へと架け替えられます。また下流部では厩橋(1874/明治7年)、相生橋(1903/明治36年)が新設されました。
ところが1923(大正12)年に関東大震災が起き、隅田川の橋梁のほとんどが改架を余儀なくされてしまいました。
帝都復興を急ぐ政府は、下流部では4橋を新たに設置しました。駒形橋(1927/昭和2年)、蔵前橋(1927/昭和2年)、言問橋(1928/昭和3年)、清洲橋(1928/昭和3年)です。同時に、永代橋、相生橋、吾妻橋、厩橋、両国橋の架け替えも進められました。この下流部の5橋と新設4橋を「震災復興橋梁」と呼ぶことがあります。震災復興橋梁は、設計にあたっては美観を重視し、異なった構造型式で造ることを方針としたため、バラエティに富んだ魅力あふれる橋梁群が誕生することとなりました。
現在、清洲橋と永代橋、勝鬨橋(1940/昭和15年)が国の重要文化財に、また両国橋、蔵前橋、厩橋、駒形橋、吾妻橋、言問橋、白鬚橋(1914/大正3年)が、東京都選定歴史的建造物となっています。
名前は、明治時代に勝鬨の渡しがあったことに由来する。中央が開閉する跳開橋だが、1970年以降開けられていない。国の重要文化財。
名前は、当時の地名の永代島に由来する。現在の橋は震災復興橋梁を代表する名橋として高い評価を受けている。 国の重要文化財。
名前は、清澄と日本橋中洲を結ぶことからつけられた。ドイツのケルンの吊り橋をモデルに設計され、その優美な姿から「震災復興の華」と称された。国の重要文化財。
江戸時代、先に造られた両国橋を大橋とも呼んだため、新大橋の名となった。
名前は、江戸幕府の御米蔵があったことからついた“蔵前”の地名に由来する。
名前は、江戸時代に幕府の御厩(馬屋)があったことに由来する。
名前の由来は諸説ある。江戸時代には大川橋とも呼ばれていた。右岸は人気の観光地・浅草。
名前は、『伊勢物語』の東下りの段でうたわれる和歌〈名にしおはば いざこと問はむ都鳥 わが思ふ人は在りやなしやと〉に由来する。
上から見ると「X」の形をしている、歩行者専用橋(1985/昭和60年)。名前は、界隈が桜の名所であることに由来する。
撮影/相築正人
松尾芭蕉は、数え37歳の1680(延宝8)年、深川の地に隠栖します。庭にバショウの株を植えたことから、草庵は芭蕉庵の名で呼ばれるようになります。俳号の芭蕉の名の由来でもあります。
新たな境地を模索する芭蕉の拠点となったそのゆかりの地に、1981(昭和56)年に開館したのが、江東区芭蕉記念館。芭蕉研究で名高い真鍋儀十の貴重なコレクションを中心に展示が行われています。また萬年橋寄りには分館があり、屋上の芭蕉庵史跡展望庭園では、芭蕉像が隅田川の川風を受けて座っています。